『富嶽三十六景 甲州伊沢暁』 葛飾北斎
『富嶽三十六景 甲州伊沢暁』 葛飾北斎
 
商品詳細
『富嶽三十六景 甲州伊沢暁』 葛飾北斎
"Thirty-six Views of Mt. Fuji/Dawn at Isawa in Kai Province " "Hokusai Katsushika"
伊沢とは現在の石和(山梨県笛吹市)のことで、古くは石禾、井沢、伊雑とも表記していた。
現在でも地図を見ればよく分かるが、この辺りは笛吹川水系のたくさんの川が流れていて、古くから荒れた湿地帯でした。
その湿地帯の沢には畳表などに使われる藺草(いぐさ)が群生していて、「藺(い)の沢」と呼ばれていたのが地名の由来らしい。
武田氏初代当主、武田信義の五男・武田五郎信光は甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて石和五郎と称し、甲斐国・安芸国の守護であった。
武田信玄の父・信虎の時に甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)に移るまでは、石和が甲斐武田氏の本拠地であった。
余談ながら、広島市安佐南区の武田山に佐東銀山城跡があり、この城は安芸国守護・安芸武田氏の本拠地であったが、天文10年(1541年)の毛利元就との戦いで安芸武田氏は滅亡する。
伊沢は今では石和温泉としてよくしられている土地ですが、温泉は昭和36年に湧出したもので、江戸時代には温泉はなく、甲州街道の宿場町として大変栄えていたようです。
この図は甲州街道伊沢宿の払暁の旅人の出立風景を描いたもので、僅かに旅籠の窓明かりが漏れる薄暗がりの中で、慌ただしく人びとが立ち騒ぐ声が聞こえてきそうな図です。
伊沢からは真南の方角には富士が黒々と佇み、棚引く雲海の手前に笛吹川(鵜飼川とも)が流れている。旅人のほとんどが右の方向に向かっているので、この場所は次の宿場甲府柳町へ向かう伊沢宿の西はずれであることが分かります。
彼方には橋が見えますが、笛吹川を渡る鎌倉往還の木橋です。
甲州街道と鎌倉往還はこの伊沢宿で合流しているのですが、その正確な場所を現在の地図上で説明します。
甲府から伊沢までの甲州街道は国道411号線とほぼ同じで、この道を甲府から大月市方向(江戸方向)に進んで石和温泉駅入口交差点を直進し、更に進むと遠妙寺三叉路交差点に至る。
ここを直進すると現在は笛吹川通り(国道411号線)と通称される甲州街道で、そのまま大月市に向かう。
この三叉路を右の方に曲がると通称鵜飼橋通りと言われる鎌倉往還に入り、そのまま進むとすぐに鵜飼橋に至る。 
図に見える木橋は現在の鵜飼橋とほぼ同じ位置であったと思われます。
鎌倉往還の甲府への道筋は、鎌倉から小田原を経由して足柄峠を越え、富士の東側の山裾を御殿場・須走・「籠坂峠」・山中湖・河口湖と通過し、御坂峠を越えて漸く甲府盆地へ至る。
道中の「籠坂峠」は通称を「三嶌越」と言い、北斎の『富嶽三十六景 甲州三嶌越』に描かれている峠です。 旅人たちが手をつないでその大きさを測っている杉の巨木を図の中央に据え、その彼方に富士山が描かれている図で以前に投稿した作品です。
ところが、この杉の巨木は「籠坂峠」に存在した形跡が全くなく、実は北斎が構図を面白くするために、甲州街道の方の「笹子峠」に今も存在する「矢立の杉」を持ってきたのではないか、というエピソードがあるのです。
この図は、企画された『富嶽三十六景』36図が出版完了した後に追加出版された、通称「裏富士」と言われる10図のうちの一枚です。
「裏富士」ものは、主版(おもはん)と言う輪郭線の顔料に、36図で使われた「ベロ藍」ではなく墨を使っているので簡単に判別できます。。
 
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『富嶽三十六景 甲州伊沢暁』 葛飾北斎
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