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『富嶽三十六景 遠江山中』 葛飾北斎 |
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商品詳細 |
『富嶽三十六景 遠江山中』 葛飾北斎 |
"Thirty-six Views of Mt. Fuji/Mt. Fuji from the mountains of Totomi" "Hokusai Katsushika"
「遠江」は「とおとうみ」と読むが、普通にそうは読めない。
遠江国は静岡県西部地域に古くから存在した律令制の国である。
地方豪族・国造(くに の みやつこ)たちによって幾つかに分割されて支配されていた地方であったが、大化改新(645)による様々な制度整備の一環である国郡制によって「遠淡海国」として一国にまとめられた。
「遠淡海国」と言うのは、琵琶湖を近淡海(ちかつおうみ)と、浜名湖を遠淡海(とおつおうみ)と、呼称したことに由来する。
この頃の都は近江大津宮、飛鳥宮、難波宮と遷都を繰り返すが、いずれにしろ、琵琶湖は都より「近い淡水湖」、浜名湖は都より「遠い淡水湖」と呼ばれたのは自然なことである。
「江」の意味は川、海、湖の一般的呼称であるから、「遠淡海(とおつおうみ)国」が「遠江(とおとうみ)国」となるのは理解できるが、「近淡海(ちかつおうみ)国」が「近江(ちかつとうみ)国」とならずに単に「おうみ」となる事情はよくわからない。
さてそれでは、この図の「遠江山中」とはどこであろうか。 実は場所が不明なのである。
図は大きな角材から板材を切り出す木挽き職人の作業を描いている。
これほど大きな板材は馬や牛の背に乗せて運べないから、川の筏流しで運ぶことになる。
遠江国は東の国堺に大井川が流れ、国の中央を天竜川が流れる。両川とも、その流域は木材産業が盛んであった。 従って場所は天竜川か大井川の流域と考えられる。
『富嶽百景』にも『遠江山中の不二』があるが、場所を特定するヒントはない。
この図の舞台は名勝でもなんでもなく、巨大な角材と格闘する木挽き職人の作業が面白いだけである。 これを構図に利用するためにわざわざ遠江山中まで出かけたとは考えにくい。
旅の途中でこの作業風景を目にして構図がひらめいたと思われる。
ところで、北斎は富嶽三十六景シリーズで『信州諏訪湖』を、富嶽百景の第2編で『信州八ヶ岳の不二』を描いている。
甲府を訪ねたとき、諏訪湖まで足を伸ばして両図をものにした後、名古屋に向かう途中の遠江でこの図を描いたのではないか。 天竜川の源流は諏訪湖である。天竜川を舟で下れば遠江を経由することになる。
画題『遠江山中』について考えてみよう。
富嶽三十六景全46図の中で、富士の山体だけを描いたものが『凱風快晴』、『山下白雨』、『諸人登山』の3図あり、その他はすべて遠景に富士が見える場所である。
『遠江山中』を除いて全て具体的地名が画題に含まれている。
『遠江山中』を「とおとうみさんちゅう」と読めば、一般的には遠江のどこかの山の中と解釈される。
しかし、北斎はこの図だけ画題をそのような抽象的な場所としたのだろうか。
そこで遠江国に山中という地名がないか調べてみた。 あった。
『遠江国風土記伝』と言う遠江国の実質的な地誌が寛政10年(1798)に成立しており、静岡県指定樹有形文化財になっている。
同書の遠江国豊田郡の部には山中村があり、同村は石高僅かに56石で、「西は天龍河、北は作村限橋之本、・・・・東は鏡山、南は船明村引坂也。水田は無く、焼畑の作物、芋、大豆、蕎麦、稗、山の物は杉丸太、黒木」と書かれている。 まさに山仕事で生計を立てていた村なのだ。
山中村の西は天竜川なので材木筏はおあつらえ向き。村の南隣の船明村(現静岡県浜松市天竜区船明)には天竜川運送船の荷揚場がある、とも同書に書かれている。
つまり、北斎は船明村で舟に乗り天竜川河口まで出て、名古屋に向かう帆船に乗り換えたのではないか。
『遠江山中』から『尾州不二見原』まで、途中には浜名湖からの富士などの名勝があるのに、どこも描かれてないのは船旅だったからではなかろうか。
構図は、奇抜さという点ではシリーズ随一かも知れない。右下から左上へと主役をクローズアップして突き出すのは『常州牛堀』に共通する。
この図には北斎の仕掛けがあるように思える。
富士の山体に纏わり付かせた妙な形の雲は龍を模したに違いない。
角材上の木挽きとたき火の番をする子供は右の空を注視し、弁当を届けに来た農婦は右の空を指さして、鋸の目立てをする木挽きに何か語りかけ、その木挽きは耳を貸している風ではない。
深閑とする山奥の神威の現象を物語にしているのではないだろうか。 |
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