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『冨嶽三十六景 東海道吉田』 葛飾北斎 |
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商品詳細 |
『冨嶽三十六景 東海道吉田』 葛飾北斎 |
"Thirty-six Views of Mt. Fuji/Yoshida on the Tokaido Road" Hokusai Katsushika
東海道吉田宿は日本橋から数えて34番目の東海道五十三次の宿場町。三河吉田と通称され、現在の愛知県豊橋市の中心部にあたる。
ちなみに、この豊橋という地名は、三河吉田を流れる豊川とここに架かる吉田大橋から取られた新地名で、明治維新以降のことである。
吉田大橋は江戸時代に東海道三大大橋の一つで、長さ96間(174.5m)、幅4間(7.3m)もの大きさであった。
三河吉田藩は所領3~7万石と小藩ながら、吉田城が戦国時代には三河支配の重要拠点の1つであり、徳川時代でも東海道の軍事的要衝であったことから、歴代の城主はすべて譜代大名が務めた。
小笠原忠知が豊後杵築藩から入部してくるまでの吉田藩は、短期在任の藩主が多く、見るべき治績がない。 忠知の母親は家康の長男松平信康の娘登久姫で、忠知は家康の曾孫になる。
忠知が入部してから小笠原長重が武蔵岩槻藩に転封されるまでの小笠原家四代52年間の三河吉田は、新田開発や灌漑整備、吉田城と城下町の改修整備などが盛んにおこなわれ、大いに発展した。
忠知は杵築藩時代でも新田開発に力を注ぎ、その後の甥の松平英親もまた新田開発や溜池築造に力を入れた。 八坂川河口の新田開発には、忠知が英親のために三河吉田から豊後杵築に百姓を百人ほど送り込んでいる。
小笠原家とは、単に礼儀作法や茶の湯で名を成した家でなく、優れた統治者でもあったろう。
豊橋と言えば、豊橋祇園祭の手筒花火が有名である。
その歴史は古く、吉田神社の神事として永禄年間の初め頃(1550年代末)に始まったらしい。 戦に鉄砲が(したがって火薬が)用いられ始めた事情と関係するようだ。
さて、この図のことである。
正面に「不二見茶屋」とあり、大きく開口した窓の向こうに不二が見える。 いかにも「不二見茶屋」に相応しい設(しつら)えである。 この茶屋は、弘化元年~嘉永4年(1844~51)刊行の『参河国名所図会』によると、現在の豊橋市下五井町に実在していた。
大きな「御茶津希(おちゃつけ)」看板の下には「根元吉田ほくち(元祖の意)」の看板が下がる。
「ほくち」は漢字で火口と書く。この時代は、火打石で火花を飛ばし、着火しやすいもので受けて火を起こした。
この火花を受けるものを「ほくち」と言い、綿やコケなどを材料とした。 吉田の辺りでは薄の穂を材料にしたものと思われる。吉田の「ほくち」は全国に名の知られた名物であった。
吉田宿は遊女や飯盛女でも賑わいを見せ、「旅人をまねく薄のほくちかと爰(ここ)もよし田の宿のよねたち」と、名物の「ほくち」の「ほ」を薄の穂にかけた里謡がある。
ここで言う「よね」とは遊女のことで、古語では「娼」の字を「よね」と呼んだらしい。
また「伊勢音頭」でも「吉田通れば二階から招く しかも鹿子の振り袖で」と言う歌が、お囃子言葉を交えながら歌われている。想像するだに艶めかしい宿の賑わいである。
北斎はその艶めかしさを二人連れの旅の女に託している。二人は何者なのか、腰を捻った科(しな)の作り方も開(はだ)けた胸元もシロウトさんではない。
如何にも華やいだ女たちの隣には、不二も見ずに不貞腐れている二人の男。一人などは草鞋も脱がずに、煙管の吸い口で耳の垢をほじっている。 二つの饅頭傘が重ねられているので、この男たちも二人連れである。彼らを女たちの荷物運び兼ボディーガードと見たい。
私には空耳に男たちのブツクサが聞こえてくる。
・・・せっかくの吉田宿と言うのに、姐さんたちのお守りかよ。何が「不二は美しいね」だ。 さっきの飯盛女の方がよほど美しいや。この吉田宿で宿をとればいいじゃねえか。・・・
飯盛女とは宿場女郎とも呼ばれる私娼であるが、別に今日の仲居さんのように給仕を行う女性を指して言う場合もある。
また、歌川広重の『東海道五十三次之内 御油 旅人留女』(保永堂版)と言う作品では、「旅人留女」が旅人を引き留める滑稽な様子が描かれているが、そのような女性たちの「専門的」職業があったのか、飯盛女が兼任していたのか私は知らない。
いずれにしろ、近在の貧しい農村から稼ぎに出てくる哀しい女たちに違いないが、広重のこの作品に出てくる逞しい留女たちに僅かながら救われる思いがする。
この後に、彼女たちの「活躍振り」をアップで投稿する。 |
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